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2009-04

LAMY2000万年筆の落とし穴?

ちょっと前の話なのですが、念願であったLAMY2000の万年筆を購入しました。

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デザイン、コンセプト、機能、どれをとっても非常に秀逸で、高いレヴェルでバランスのとれた名作LAMY2000ですが、私の元へ来た子には意外なところに落とし穴がありました。

数ある万年筆メーカーの中でも、私はLAMYを非常に気に入っています。
LAMY2000の4色BPと出会い、Safariを知り、そのドイツらしい機能主義の哲学やストイックなデザインに惚れ込んでしまったのです。
あまりにも惚れ込んでしまって、次はスウィフトを買おうか、スピリットにしようか、はたまたステュディオか…と、まぁ夜な夜な妄想を膨らませています。

さて、今回のこのLAMY2000の万年筆ですが、私の所有する万年筆の中で唯一の吸入式です。

購入したのはF(細字)。
LAMYは他のメーカーに比べて字幅が広いと評判ですが、試筆の段階では、字幅はウォーターマンのFと同じくらいだったのです。
「あ、これくらいならちょうど良い」と思い購入。
しかしここで私は、”つけペン状態とインクを入れた状態ではインクフローが変わる”という基本事項を完全に失念しておりました…

4色BPを買った時から欲しくて欲しくてたまらなかった万年筆ですから、早速インクを入れてロディアに落書きを始めました。

…太い。サファリのMくらいの幅ですよ。

しかもインクが盛り上がるほどの潤沢さ。
モンブランのレーシンググリーンが、ブラックと見まがうほどに濃い。

この字幅の予想以上の太さと潤沢すぎるインクフローにより、当初のノート用から書簡用に用途変更です。
書き終わってから完全にインクが乾くまで、かなりの時間を要します。
ブロッターが欲しくなりました。

さらに、この燃費の悪そうなインクフローの割に特定の角度で引っかかる感覚があるのです。
試筆の時には運良く、その”特定の角度”が出なかったようで。
それ以外は、非常に柔らかく滑るような書き味。
やはりインクフローは書き味をかなり左右するようです。

さて、問題の引っかかり感。
LAMYって確か、出荷前に試筆検品してるって聞いたんだけれど?
と、思いつつ、ルーペでニブを見てみると、LAMYらしからぬ衝撃の光景が!!

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わかりにくいですかね…
では正面から。

img_0382

お気づきでしょうか。

なんと!! 切り割りの左右でイリジウムの大きさが違うのです!!
それも段差ができるほどに!!

そりゃー引っかかる感覚しますよ。

イリジウムの大きさを揃えるようにちょこっと研磨したんですが、私の技量では完全には解消できない。。。
これはもう、来月のWAGNER定例会に参加せよというお告げですかね。

しかし…サファリは2本ともキレイなニブポイントなのになぜ2000FPが。。。

文系とか理系とか その2

先のエントリ批判した記事其の二が付いていました。
そちらもどうも違和感だらけなので、反論してみることにします。

理系脳毒之助Diary:文系と理系には埋めがたい溝がある件について 其の二 – livedoor Blog(ブログ)
http://docnosuke.livedoor.biz/archives/51211811.html

文系の人の話をつきつめていくと、最終的にはなんらかの権威を信じることでしか、その論理の正当性を主張出来ていないことがほとんどです。

文系のほとんどの学問で、なんらかの権威を信じることでしか論理の正当性を主張できないのは、解が無いからです。
というか、文系の場合はもうどこまで行っても「仮説」でしかないわけで、それが正しいのかということを証明することが出来ない(というかスタンスが違う)んです。
だからこそ、研究者として有名な誰かの仮説に立って、新たな仮説を積み上げていくのです。
この人の仮説ならこうだ、でもあの人の仮説だとこうなる、と。

これが理系だと、「現象」はもうそこにあって、正解が存在している。
だから権威に頼らずとも、正当性が証明できるのです。

正解に至る論理的な正しさを追求する理系と違って、正解を持たない文系は正しさを追求するスタンスは取っていない。
これは非常に大きな違いで、もう学問の性質からして違うのだから、これを同列に語ること自体がまずおかしい。

しかし文系の場合、どこかしらで「信じること」しかできない壁につきあたります。ある思考のフレームワークが正しいか正しくないかというのは、人が何を信じるかによって変わってしまいます。

違う違う違う!!
文系の学問は「正しさ」を追求する学問じゃないんだ!!
「正しさとは何か」を追求する学問なんだ!!
ある現象をみて、理系はその現象を説明しようとする。でもその現象が、実在しないとしたら?幻想だったら?はたまたキアヌ・リーヴスが主演した映画のように、何者かによって創られたものだとしたら?
何が正しいかなんてわからない。だから何が正しいのかを追求するのが文系の仕事なんですよ。

もっと言えば、何を信じるかによって変わってしまう「正しさ」を、その中にある本質にまで昇華する作業が文系には求められるんです。
その手法として有名なのがテーゼとアンチテーゼ(これが立場によって異なる正しさ)を止揚してジンテーゼを導き出す、ヘーゲルの弁証法です。

「それってどこまで普遍的なのよ?」という疑問がどうしてもわいてしまうからです。

これを見て、私は「普遍性ってなんなのよ?」という疑問がどうしてもわいてしまいます。
この世界に普遍的なものなんて一つも無い。
見ている色、感じる温度、動き、世界のすべては個の中にしか無い。すべては究極に特殊で個別具体的なんです。
ただそれを、共通認識(もっと言えば共通幻想)として扱うから、普遍的に見えるだけ。

私が見ている赤色と、あなたが見ている赤色は違う。
たかが色にすら、普遍性なんてものは存在しない。
そのなかで普遍性とか正しさとか存在とか、非常に曖昧で実際には存在しないものを追及していくのが哲学だったり、論理学だったりそういう文系的な学問なんです。

言語学をはじめとする他の文系的な学問も同じ。
解なんて無いところから出発するのが文系なんです。
文系において一つだけ確かなことは、「自分が存在している」ということだけです。
本来存在し得ない「普遍性」という権威を信仰するのは理系です。

普遍的な客観性でなく、最後には権威を拠り所に信仰へと向かってしまう文系に、理性のある社会を作り上げることができるのでしょうか。

いやそれは極論というか暴論というか…理性的な社会を創るために人間が用いてきた法学や心理学や社会学はすべて文系ですよね?
非常に曖昧である「存在」や「普遍性」といったものに立脚している理系こそ、本当の意味で理性的な社会を創ることなんて出来ないと思うのです。

私は、「科学」というものは、人類史上最高に普及に成功した宗教だと思っています。
なぜなら、本当の意味での懐疑をしないから。これはもう一種の原理主義です。

文系とか理系とか

そもそもその区別に意味があるのでしょうか。

発端はこの記事。

404 Blog Not Found:理系バカよりなのには訳がある – 書評 – 理系バカと文系バカ
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51205044.html

実際、心から文系が好きで、文系に進んだ人というのはどれくらいいるのだろう。実際のところ、ふたを開けてみれば何らかの理由で理系に挫折したからというものが多いのではなかろうか。

いやいやいや。
確かにそういう人も居ることは確かだろうけれど、それが大多数だとは思いません。
純粋に文学が好きで文学科に入る人間も居るし、外国語学部なんてのは逆に好きな奴しか進まない。
文系が、理系に挫折した人間の集まりだとするならば、なぜ東京外語大があんなに高い評価を受けるの?
中高で数学が苦手で、それよりも古文が面白くなって文学史をやりたい!と思うのは、数学に挫折したと表現するのが正しいのですか?
それならば、古文や歴史が苦手で、数学や物理に目覚めた生徒は、文系に挫折したから理系に進むということになります。
理系バカが挫折を知らないだけなんてのは暴論。もしかしたら古文や漢文に挫折したかも知れないじゃないですか。

個人レヴェルでは適性の問題ですよ。
ただ、教育システムはコストの関係で文理を分けているから、結局コストの問題になるわけで。

まぁ、その点以外はこの記事には特に言うことはないんですけれど。書評ですしね。
私もこの「理系バカと文系バカ」は読んでみようと思いました。

んで、それよりも気になったのは、上の小飼氏の記事にトラバしていたこの記事。

理系脳毒之助Diary:文系と理系には埋めがたい溝がある件について 其の一 – livedoor Blog(ブログ)
http://docnosuke.livedoor.biz/archives/51211699.html

しかし本当のところは、挫折する以前の問題です。ものごとの本質を深く知るということに興味を持たない多くのひとが、なまぬるくて心地の良い環境を求め、始めから文系を目指しているような気がします。

これこそ理系の思い上がりの極み。
物事の本質を深く知りたいと志す人間は、理系には歩みません。
紀元前の昔から、本質を追求する学問は「哲学」でした。そして哲学は、現在「文系」の学問です。

でも僕は、こういう文系学生の脳みそ自体の質が悪く腐っているとは思いません。単に「信じること」に忙しく、「問うこと」に価値を見出さない、思考停止型の人が多いだけなのです。

どう考えたって暴論。大暴論ですよ。
文系が「問うこと」に価値を見出さないなんてことはないし、むしろ逆。
科学というものさしでしか世界を見れない理系に、思考停止なんて言われたくない。

ただ、残念ながら「問うこと」をしない人間がいるのも事実。
そしてそれは比較的文系に多く存在する。(しかし文系の多くがそうだとは言えない)

理系の大多数を占める科学という学問は、「説明できることしか信じない」ことが共通前提です。
いいですか?
科学という学問は、「この世のすべての現象は説明できる」という大前提に立っています。
科学という学問は、それだけではよくわからない現象を、理論として分解して、可視化して、わかりやすいように説明する学問です。
解が無いということは許されない。
だから追求するんです。究極の解を導き出すまで問い続けるのは、現象を「可視化」して「信じるため」なんです。

なぜならば、この世には一人では知りえないほどの膨大な知識がある以上、問うことに終わりはないからです。問い続ける人は、どんどん先へと見えない所へ進んでいってしまうのです。その一方、思考停止した人は、問い続けた人が残したおこぼれを信じることしかできません。

問い続けた人が残したおこぼれを信じているのは理系の人間でしょう。
先人が発見した理論や公式、仮説に基づいて論理展開するのだから。
そして上の文にもすでに論理破綻が。
「知識」というのは、過去に問い続けた人たちの残したおこぼれです。
知識がすべてだと信じるのは、思考停止型の特徴です。

一方文系はどうか。
たとえば文学。解なんてものは最初から存在しません。
そのときに自分が信じているものを、表現するための、もしくは表現されたものを読み解くための学問です。
あえて言うならば、解は個人それぞれの内面にしか存在し得ない。
考古学や歴史学というのも、遺物や文献から、過去の世界がどうだったのかを常に問い続ける学問です。
その時代に生きたことがないのに、正解なんてわかるわけが無い。

そして文系最大にして至高の学問「哲学」はどうでしょう。
すべての学問は、最終的に哲学に帰結します。
すべての学問は、哲学から派生したものだからです。
たとえば物理学では「原子」の存在を信じることが前提です。そこにモノが存在すると「信じて」初めて成立する。
理系では原子の存在を疑うことはまず無い。
しかし哲学では、その「存在」とは何かという命題を扱う。

「存在」に疑いの目を向けるところから、哲学は始まる。
それを思考する人間が「存在」しているのだから、その命題には永遠に解など見つからない。

このように、解の無い命題を問い続けていく学問は、すべからく文系なのです。

理系の人間は、問うことが可能にする自分たちの境地に決して達することのない、文系の人間に対する優越感を持ち始めます。

これはソクラテスの時代に論破されたことですね。
いわゆる「無知の知」です。
問うてもわからないことがある、という諦めを持ったとき、初めて「それでも敢えて問うこと」に価値が生まれるのです。
何でも理性的に論理立てて説明できることが優れているとは到底思わない。
むしろその傲慢さこそ、人間の愚かさの証明ではないでしょうか。
だからこそ、ソフィストが賢者と言われていた時代に、無知であるソクラテスが誰よりも賢かったのです。

ここまで理系をこき下ろしてきてなんですが、私はだから文系の方が優れていると言いたいわけではない。
文系、理系とカテゴライズするから優劣の意識や差別が生まれるのであって(人間というのはカテゴライズされると競争したくなる生物のようです)、カテゴライズすることそのものがまず間違っている。
物理が得意な人は物理のメガネで世界を見ればいいでしょう。
そして言語学が好きな人は言語学のメガネで世界を見ればいい。
それだけのことです。

ここから蛇足。

そんな理系の上から目線を敏感に察する文系は、理系に対して「専門バカ」というかわいそうなほどイタいレッテルを張り、多数派という数の力を使い、本質を知らないという点では劣る自分たちの砦を防衛してきたのです。

本質を知らないのは文系も理系も同じ。
生物学は「生命」の定義すら出来ていないし、最新の量子物理学をもってしても「時間」を定義できていない。
物事の本質なんてものは、最初から誰にもわからないんです。
最初から「問うこと」をしない人間は論外ですが、その「誰にもわからないこと」を知ったかぶりしている限り、「理系バカ」は本物のバカなんです。

そしてその本物のバカを論破しようと試みているあたり、私も本物のバカですね。

LAMY2000 4色BPとゼブラの4Cリフィル

先日のエントリでLAMY 2000の4色BPにゼブラのリフィルを入れていたが、問題が浮上したので補足エントリ。

私が使用しているゼブラのリフィルは、販売店では「シャーボX専用」として売られている。
どうも専用規格と言うことらしいが、見た目は普通の4Cリフィル。長さも同じ。

ただ、なんと外径が違うらしい!!

早速図ってみると、シャーボXリフィルは微妙に太い。
LAMYは真鍮のパイプにリフィルを装着するタイプなので、この真鍮のパイプが拡げられてしまうのだ。

案の定、純正リフィルを入れてみると緩くなってしまっていた。
まぁ、油性に戻すとしても入手が容易なゼブラを使うつもりなので問題はないのだが、もしも標準の4Cを使う予定がある場合、ゼブラは使わない方が良いだろう。

なお、緩くなってしまった場合は真鍮のパイプをペンチなど(細いヤットコがいいかも)で軽くつぶしてやれば解消するだろう。
が、純正以外のリフィルを使った時点でメーカー保証はきかなくなるだろうから、自己責任で。

コストパフォーマンスの良いイヤホン

今日、ヨドバシカメラにてイヤホンを買ってきた。

オーディオ機器には興味はあるのだが、これ以上趣味の幅を広げてもどうかと思っているのであまり詳しくはない。
性能云々は別として、地元の企業だからという理由だけでAudio-technicaが好きなのだ。

学習用のipodはほぼ毎日使うので、気に入ったモノを使いたいという欲求があった。
そこで今日、Audio-technica製品を探してきた。

Audio-technicaは廉価モデルからハイエンドまで、非常にラインナップの幅が広い。
今回は音楽を聴くにしてもmp3だし、メインは語学学習用なので、音質はあまり考えていなかった。
とは言っても安いイヤホンなら既に持っている。
せっかくだから、少しは上質な物が欲しい。
音質を追求すれば数万円のイヤホンもあるのは知っていたが、上限は5千円程度で考えていた。
ヨドバシのポイントが5,000ポイント弱貯まっていたからだ。

売り場で気になったのは、Audio-technica製品の中でATH-CK300ATH-CK31、そして購入したATH-CKM50である。
CK300とCK31はほぼ同じ物。
弟がCK31を使っていたので、音質も知っている。
それぞれヨドバシでの売価は1,980円だった。

CKM50は、Audio-technicaの上級ラインの試聴コーナーにデモが置いてあった。
4,980円という価格で、もちろんデモの中では一番安い。
しかしわざわざデモを置くくらいなのだから、それなりの性能なのだろうと試聴してみた。

なるほど、低音から高音までクリアで少しのこもりも無い。
もちろん並んでいる高級機に比べたら確かに劣るが、そこまでこだわらない私にとっては十分な音質。
さすがに2,000円以下のモデルとは一線を画す性能だ。
その場で購入を決意した。

早速ipodにつないで、例文集やらpodcastやら音楽やらいろいろ聞いてみたが、非常に快適だ。
カナル式なので周囲の雑音も最小限。
これで5000円以下なのだから、コストパフォーマンスは抜群だ。

あまり高価でない、しかし音質の良いイヤホンをお探しの方には自信を持って勧められる。

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