文系とか理系とか

そもそもその区別に意味があるのでしょうか。

発端はこの記事。

404 Blog Not Found:理系バカよりなのには訳がある – 書評 – 理系バカと文系バカ
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51205044.html

実際、心から文系が好きで、文系に進んだ人というのはどれくらいいるのだろう。実際のところ、ふたを開けてみれば何らかの理由で理系に挫折したからというものが多いのではなかろうか。

いやいやいや。
確かにそういう人も居ることは確かだろうけれど、それが大多数だとは思いません。
純粋に文学が好きで文学科に入る人間も居るし、外国語学部なんてのは逆に好きな奴しか進まない。
文系が、理系に挫折した人間の集まりだとするならば、なぜ東京外語大があんなに高い評価を受けるの?
中高で数学が苦手で、それよりも古文が面白くなって文学史をやりたい!と思うのは、数学に挫折したと表現するのが正しいのですか?
それならば、古文や歴史が苦手で、数学や物理に目覚めた生徒は、文系に挫折したから理系に進むということになります。
理系バカが挫折を知らないだけなんてのは暴論。もしかしたら古文や漢文に挫折したかも知れないじゃないですか。

個人レヴェルでは適性の問題ですよ。
ただ、教育システムはコストの関係で文理を分けているから、結局コストの問題になるわけで。

まぁ、その点以外はこの記事には特に言うことはないんですけれど。書評ですしね。
私もこの「理系バカと文系バカ」は読んでみようと思いました。

んで、それよりも気になったのは、上の小飼氏の記事にトラバしていたこの記事。

理系脳毒之助Diary:文系と理系には埋めがたい溝がある件について 其の一 – livedoor Blog(ブログ)
http://docnosuke.livedoor.biz/archives/51211699.html

しかし本当のところは、挫折する以前の問題です。ものごとの本質を深く知るということに興味を持たない多くのひとが、なまぬるくて心地の良い環境を求め、始めから文系を目指しているような気がします。

これこそ理系の思い上がりの極み。
物事の本質を深く知りたいと志す人間は、理系には歩みません。
紀元前の昔から、本質を追求する学問は「哲学」でした。そして哲学は、現在「文系」の学問です。

でも僕は、こういう文系学生の脳みそ自体の質が悪く腐っているとは思いません。単に「信じること」に忙しく、「問うこと」に価値を見出さない、思考停止型の人が多いだけなのです。

どう考えたって暴論。大暴論ですよ。
文系が「問うこと」に価値を見出さないなんてことはないし、むしろ逆。
科学というものさしでしか世界を見れない理系に、思考停止なんて言われたくない。

ただ、残念ながら「問うこと」をしない人間がいるのも事実。
そしてそれは比較的文系に多く存在する。(しかし文系の多くがそうだとは言えない)

理系の大多数を占める科学という学問は、「説明できることしか信じない」ことが共通前提です。
いいですか?
科学という学問は、「この世のすべての現象は説明できる」という大前提に立っています。
科学という学問は、それだけではよくわからない現象を、理論として分解して、可視化して、わかりやすいように説明する学問です。
解が無いということは許されない。
だから追求するんです。究極の解を導き出すまで問い続けるのは、現象を「可視化」して「信じるため」なんです。

なぜならば、この世には一人では知りえないほどの膨大な知識がある以上、問うことに終わりはないからです。問い続ける人は、どんどん先へと見えない所へ進んでいってしまうのです。その一方、思考停止した人は、問い続けた人が残したおこぼれを信じることしかできません。

問い続けた人が残したおこぼれを信じているのは理系の人間でしょう。
先人が発見した理論や公式、仮説に基づいて論理展開するのだから。
そして上の文にもすでに論理破綻が。
「知識」というのは、過去に問い続けた人たちの残したおこぼれです。
知識がすべてだと信じるのは、思考停止型の特徴です。

一方文系はどうか。
たとえば文学。解なんてものは最初から存在しません。
そのときに自分が信じているものを、表現するための、もしくは表現されたものを読み解くための学問です。
あえて言うならば、解は個人それぞれの内面にしか存在し得ない。
考古学や歴史学というのも、遺物や文献から、過去の世界がどうだったのかを常に問い続ける学問です。
その時代に生きたことがないのに、正解なんてわかるわけが無い。

そして文系最大にして至高の学問「哲学」はどうでしょう。
すべての学問は、最終的に哲学に帰結します。
すべての学問は、哲学から派生したものだからです。
たとえば物理学では「原子」の存在を信じることが前提です。そこにモノが存在すると「信じて」初めて成立する。
理系では原子の存在を疑うことはまず無い。
しかし哲学では、その「存在」とは何かという命題を扱う。

「存在」に疑いの目を向けるところから、哲学は始まる。
それを思考する人間が「存在」しているのだから、その命題には永遠に解など見つからない。

このように、解の無い命題を問い続けていく学問は、すべからく文系なのです。

理系の人間は、問うことが可能にする自分たちの境地に決して達することのない、文系の人間に対する優越感を持ち始めます。

これはソクラテスの時代に論破されたことですね。
いわゆる「無知の知」です。
問うてもわからないことがある、という諦めを持ったとき、初めて「それでも敢えて問うこと」に価値が生まれるのです。
何でも理性的に論理立てて説明できることが優れているとは到底思わない。
むしろその傲慢さこそ、人間の愚かさの証明ではないでしょうか。
だからこそ、ソフィストが賢者と言われていた時代に、無知であるソクラテスが誰よりも賢かったのです。

ここまで理系をこき下ろしてきてなんですが、私はだから文系の方が優れていると言いたいわけではない。
文系、理系とカテゴライズするから優劣の意識や差別が生まれるのであって(人間というのはカテゴライズされると競争したくなる生物のようです)、カテゴライズすることそのものがまず間違っている。
物理が得意な人は物理のメガネで世界を見ればいいでしょう。
そして言語学が好きな人は言語学のメガネで世界を見ればいい。
それだけのことです。

ここから蛇足。

そんな理系の上から目線を敏感に察する文系は、理系に対して「専門バカ」というかわいそうなほどイタいレッテルを張り、多数派という数の力を使い、本質を知らないという点では劣る自分たちの砦を防衛してきたのです。

本質を知らないのは文系も理系も同じ。
生物学は「生命」の定義すら出来ていないし、最新の量子物理学をもってしても「時間」を定義できていない。
物事の本質なんてものは、最初から誰にもわからないんです。
最初から「問うこと」をしない人間は論外ですが、その「誰にもわからないこと」を知ったかぶりしている限り、「理系バカ」は本物のバカなんです。

そしてその本物のバカを論破しようと試みているあたり、私も本物のバカですね。

こちらもあわせてどうぞ

カテゴリー: 雑記   パーマリンク

Comments:0件

Comment form
Remember personal info

Trackbacks:1

Trackback URL for this entry
http://www.inolabo.net/20090427822/trackback
09-12-24 (木) 1:05 文系とか理系とか その2 - いのらぼ -本と文具とWebの生活-

[...] Older [...]